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辛いなぁ 投稿者:ゆたんぽ 投稿日:2002/09/22(Sun) 22:34 No.8  
え〜と、やたんぽと申します。
私もこちらの常設掲示板にお邪魔しています(って、こういう書き出しでなきゃダメなの?)。

さて、いよいよ始まった映画論第1段、《オンリー・ユー》ですが。
これが最初にして最大の難関だったりします。
ホントに辛いんです…OY論。
案の定、NbU様と《パート分け》も同じなら、《エルの心情》解釈も同じ。
それと出張前に、視聴しながら執っていたメモ。このツッコミ所はdeacon様とほぼ同じという…。
違った見方もあるだろうし、想像もつきますが、それじゃ自分の視点に嘘をつく事になりますし。
弱ったなぁ…。
まぁ仕方ないので、パートの流れに沿ってつらつらと書かせていただきます。

まずこの映画について先に思うのは、明らかな《やっつけ仕事》だった故の、《粗》が目立つことです。
当時のアニメなら《こんなものか…》と思う方もいらっしゃるかも知れませんが、それは違います。
作画と言い、演出と言い、レベルが1〜2段は低いです。
一説によると新年1月公開なのにも関わらず、進行が押井監督に泣きついたのが前年10月であり、その時《エル》というキャラデザインのみしか無かったと言われています。
(反対に押井監督が最初から加わっていたという説もあります)
deacon様の言う《統一感のない作画》とは、この製作期間不足が大きく起因していると思われます。
ただよく言われる《あたるのキャラ設定が変》なのは、監督自身の《思い込み》というか、ギャグ要素を強くする為の《確信犯的行為》でしょう。
(TV版・劇場版を問わず。ことに劇場版のOYは酷い。しかしギャグは上手い。特に反復ギャグ)
ですから、《ときめきの聖夜》《サマーデート》《君去りし後》に於ける2人の関係も、《積み重なった》と思うのはファンの勝手で、この監督の場合、毎回《リセット》されていると見る方が自然です。
だからこそ《去り際》に、2人の関係をファンの望み通り修復すべく《スクランブル! ラムを奪回せよ!!〜死闘! あたるvs面堂軍団!!》を、置き土産にしたと私は考えています。

Opening 《影踏み》
影踏み=影絵は悪くない発想ですが、往年のNHK番組のような徹底した影絵にスタッフはしたかったんじゃないでしょうか。
いきなり中途半端な印象で始まり、私はこのシーンが苦手です。
またいくらあたるがバカでもUFOと遭遇していれば、何らかの記憶は残っているでしょう。
例え影踏みを女の子とした事を忘れても…と思っていましたが、ここはエルの回想なので、あたるはUFOを見ていない可能性はありますね。
(影、踏んどるやんけ!! とdeacon様が書かれたのとは違う理由からエルの回想と知りました)
劇場公開時に削られた面堂邸のシーン。ここは皇居か?向こうのビル群は新宿と思いました。
で、電話は手回しの野戦仕様。サイドカーのナビの体重移動に注目。
しかしOPの歌の終わり頃、街中に案内状を空からバラまいているので個別に送った理由が不明。
カットされたのはこれでかな…とも思えます。
メガネ達が牛丼屋でこれを受け取るのは意味があります。
《犬の押井》でなく、この映画は徹底的に《牛》なんです。何故かは解りません。スタッフ間で流行ったんでしょうか?
もしかしたらレイの妙な活躍にも繋がっているのかも知れないです。

Part1 《学校から地球脱出〜星間戦争》
投稿シーンでの噂に、重婚=ロリコンの一種?と囁かれています。
これはスタッフの確信的挿入でしょう。当時流行っていたからね。くり〜むレモンとか。
ディーンに移ってチビの冤罪シーンや、もろ、くり〜むレモンのパロもありましたね。
教室では科学の授業。黒板には《すき焼き》の作り方。牛です。
この後、拷問シーンが来て母船出現ですが、ラグビーをやっている生徒に白井コースケっぽいヤツが。
ヒラヒラと舞うバラの花弁の演出は見事。このままピンクの透過光で行って欲しかったのですが、《いきなり》空が夕焼けに。
まぁこれはエルの回想と繋げる為の《簡略演出》ですね。悪くはないですが《色指定》は変です。
この母船は思いっきり、スピルバーグの《未知との遭遇》のパロです。
しかし《11年前も昔から浮気してたっちゃね!》っていうラムの論理。好きです。
その後の諦めが良いラムとは好対照です。このラムに《え?》と思うのは皆さん同じで…。
そして物議を醸したラムの徘徊〜弁天との出会いです。
最初の喫茶店。BDでは花屋に替わったのか?と思ったのは私だけでしょう。
良く聞くとこの辺セリフが無茶苦茶。ラムに対してUFOで寝ろよ!とか、《三界に家なし》(天界・人界・地獄界で三界)って、どこの生まれだおまえわ!と弁天にツッコミを入れた人は多いでしょう。
で、この後牛丼屋。牛です。
寝相が悪くても落ちないテンを羨ましく思いつつ、《大盛り・味噌汁・お新香付き》と言い切ったレイにビックリ。
こんなセリフの長いレイはこの後も見ません。そして牛が牛を注文しているのです。牛だ。
また原作でレイに喰い潰された店がここだったような錯覚をしたのも私だけでしょうか。
弁天の励ましにより家に戻るラムのUFO。酔わないのかなぁ。この後も飛び方がず〜っと変です。
親父もローンの事を言う前に《年齢》を気にしろよ。
《うずしお》は当時最新だった洗濯機の名です。誰も骨格がバラバラに破砕されないのはさすが。
例の星間タクシーも出てきますが、ミッションはマニュアルなんだね。どういう変速をするんでしょう?
しかしメガネの枕の裏…よく気づきましたねdeacon様。私はこれ、知りませんでした。
ブリッ子=はまちッ子、牛丼の大将後にラムの親父の母船出現がありますが、あの出現シーンはマクロスのフォールドをパロッたもの。
そしてすき焼きの家族シーン。牛だ。
未婚の方は想像外でしょうが、相手の親に承諾を得るとホントに女性はこんな顔をします。
私は《その顔》を横目で見て、この映画を想像してしまい…プッと…。ひんしゅくを買った覚えがあります。
続く戦闘シーンは2人の会話と鬼軍の命令アナウンス、それぞれがまったく噛み合わない《反復ギャグ》のお手本です。
これは今見ても可笑しいです。《にぃさ〜〜ん》が最高。
ロゼのセリフ。《その顔、その姿…暫く借りるぞ》これは後に高橋先生自らがパロっていますね。
ラムの出撃シーン。このローアングルを描いた作画はパースと言い加速感と言い、とても上手いです。
この後のアニメのコックピット・シーンはこのアングルが増えました。
爆発後のラムの横顔が好き。牙が可愛いです。

Part2 《エル星》
誰がどう見ても《バラ星雲》なんですが…若い星が次々に産まれる、生命の発生にはまだ早い過酷な環境と想像できます。
そのせいか、惑星そのものがバラ状のシェルターで覆われているのは《誰の発想》なんでしょうか。
私の小説はここをもとネタにしています。
もともと音楽がとても良いこの映画で、一番良い音楽が流れるパート。
屋外エレベーターで見かける牛丼屋の音楽もなかなか。牛だ。
さりげないエルのセリフが11年の想いの丈を滲ませています。それも1度や2度ではなく。
解釈はNbU様とまったく同じです。ですからこれ以上書きようがないです〜。
《我々は自らを犠牲にして、我々の為の貴重な時間を稼いでくれた彼の名を永遠に忘れないだろう》
BDの萌芽がそこはかとなくここに。
《冷凍マグロと一緒にしないで!》というしのぶのセリフもなかなか。

Part3 《ラムの回想》
弁天のセリフから繋がるこのシーンを《アリア》と呼ぶNbU様のセンスは最高ですね。
私は《モノローグ》で終わっちゃいました。
ここでラムが想像する、或いは思い込んでいるあたる像が、ストーリーとかけ離れすぎ。
でもファンの心情だよね。

Part4 《再びエル星〜結婚式襲撃〜異空間トリップ》
テンのセリフで始まるこのパート。
このテンのセリフが…完結編のお別れと同じで、虐待されつつも《優しい》テンが滲み出ています。
結構好きなシーンです。
自棄酒のロゼ。私が普段行く酒場もこんな感じ。隅っこで小説ばっか読んでいます。
しかし結婚シーンでのテンも惨めな役だ。
更に仲人。こんな仲人は絶対にイヤだ。名前が某サンライズ系ロボットもののパロ。
99,999人の色男の暴動。ここに居合わせるクラマ姫…か、哀しいぞ。
誓いの言葉は別段何かのパロではないのですが《カリオストロ》を思い出しますね。
エル星の国教は基督教なんだ…。
で、次が本物のパロ。男女が逆ですが。ダスティン・ホフマンならぬラムでした。
この辺り、作画がすっきり見えますね。
そしてワープによる異空間というか過去へのトリップ。
これは記憶へのトリップとも言えるでしょう。
これをエルの記憶とするとどうでしょう。
あたるは忘れていただけですが、エルは踏まれていない事実を知っていて記憶を封印していたと解釈するのです。
女王となるべく定められた運命…それらの重圧を投げ捨てる事も出来ず…。
子供時代の自分に《綺麗》と優しく言われた事で彼女はけじめをつけ、少女時代に今決別し、真の女王としての道を歩む決心をしたのでは。
エレベーターの涙はそれを表していたともとれます。
そしてその重圧とは…これが私の小説ネタなんですね〜。だから書きたくなかったんですョ。

Ending 《ラムとの結婚式》
まぁいつものバタバタですね。鬼星も基督教なのかと…そんな程度のツッコミしかありません。

<総論>
ストーリーは短期制作とは思えないほど《まとも》だし、これ自体が《うる星やつら》の世界を完結させているとの論も賛成です。
ただ作画のまずさは頂けません。
これは私が《アニメ=総合芸術》と考え、《見せる=魅せる》と思っているからです。
この点で私は、完結編を除いて《うる星やつら》の世界を完結させているという意味で《いつだって…》の方が馴染むのです。
映画じゃないよあれは、或いはらんま画でダメだ…という論も承知の上で。


Re: 辛いなぁ deacon - 2002/09/24(Tue) 21:17 No.12  

ゆたんぽさん、熱いメッセ−ジ有難うございました!
特に、最初の影踏みと、異空間トリップの考察に深い感銘を抱きました。
エルの「踏まれていない事実を知っていて記憶を封印」という解釈には涙が出る思いです。女王としての重圧。本当にそうでしょうね。そのなかで、自分が唯一素直になれる思い出が影踏みだったのでしょう。そう考えるとほんとあたるってどうしようもないっすね。
<作画>
わたしも、一つの作品として考える場合、「作画」「ストーリー」を分けて考えることはしません。
映像上見せる媒体であるならば、当然「作画」のクオリティも求められるのですから。
だからいくら「物語」が良くても、「作画」の質が低ければ当然全体的な評価は低くなってしまいますね。逆もそうですが。


作画について 投稿者:deacon 投稿日:2002/09/21(Sat) 19:11 No.2  
完結編までの5作品においてこれ程までに映画中に作画が変わった作品があったであろうか?
物語冒頭の遠藤裕一氏の面長ラム、中盤の青嶋氏によるキュートなラム、または西島克彦氏によるあたる。後半の大坂氏や森山氏によるそれぞれのあたる。
個人的には、「極私的映画論」でも書いている通り、青嶋ラムや、森山氏あたる、西島氏あたるは気にいっていたのですが、全体的に見ているほうにとっては統一感がない印象が強かったです(冒頭の遠藤○一氏による面長ラムや猿顔キャラはタイヘン痛いものがありました)。皆さんは如何でしょうか?


Re: 作画について ワン - 2002/09/22(Sun) 07:03 No.4   HomePage

映画論掲示板設置おめでとうございます♪
さて、作画について・・・早速意見を述べさせていただきますが・・・そうですね、確かに言われてみれば統一感の無かった作画だったと思います。でも言われるまで気付きませんでした、私・・・。だから私としてはそんなに違和感はなかったような感じです。
ただ思ったのが、「ラストのシーンを私好みの作画でしめてもらってホント良かった!」って思いました。ラストの作画はステキです、あたるがかっこよくて♪


Re: 作画について ネコこたつ - 2002/09/23(Mon) 14:18 No.9  

新コーナー設置、おつかれさま&おめでとうございます^^
まだOYは見直してないんで、なんとも言えんのですが、とりあえず作画に関しては一言
deaconさんご指摘の通り、たしかにこの映画、劇中コロコロ顔がかわっています^^;
特に「私的映画論」にもあった、猿顔。あの部分はあまり好きになれません^^;
だがまぁ、そんなことは許すとしましょう。別に嫌いじゃないですから。
が!しかし!どーしても好きになれないのは「サクラ先生の髪型」!
まだこの当時は、あーゆー(なんと言ったらいいかわかりませんが^^;)ちとボサッとした髪型だったのはわかります。
しかし・・・・しかしやっぱりサクラ先生はきれいなストレートが一番ビッとくるんだー!(爆)

・・・すみません。すごい個人的な意見です^^;
でもまぁ、やはりサクラ先生はBDからのきれいなストレート、あれが一番似合うと思うんですよね
(すでにOYの考察からはずれとる^^;・・・スミマセン)


Re: 作画について 素人 - 2002/09/24(Tue) 00:16 No.10  

今日OYのアニメ版コミックを買って見直して見ましたが
本当、絵がコロコロ変わってます。
残念ながらアニメ版コミックは「劇場版」のほうを使っているらしく、
冒頭の面堂家への手紙配達の描写がありませんでしたが、
最初の面堂の眉毛の太さには一瞬引きました。
以前映画を見たとき、面堂の眉毛の太さで絵の違いを感じたほどです。

また、最初の方の人物の肌の色がいかんと思うのです。
ちょっと白すぎでは・・・

まだ映画で見ていないので、はっきりとはいえないんですけど(汗


Re: 作画について NbU - 2002/09/24(Tue) 06:51 No.11  

作画の不統一、しかもよりによって大事な立ち上がりが一番厳しいのですよね。
私もこれで結構損してると思います。
特に、宇宙戦争シーンでのメカはすごくカッコよく決まってたりする分残念な気が。
ラム艦隊の艦載機やエル星のパトカー、戦闘機、どれを取ってもデザインが素晴らしいですね。

私的に一番めげるのは登校時のサクラさん。個性云々言う前に目が死んでます。


91プラス?? 投稿者:NbU 投稿日:2002/09/22(Sun) 16:03 No.6  
みなさんこんにちは。
実は男性(隠してない)のクラマ姫とエル様のしもべNbUです。

deaconさんの映画論を見て、一つ気になったことが。

<弁天=守銭奴の心を持った修羅の女説>
(ごめんなさい)

実はオンリーユーには、

1)劇場公開版(1983/2/11)  の 91分バージョン
2)ノーカット版(1987/12/??) の ??分バージョン
(番外:1984のBD完成記念イベントでノーカット版が巡回上映されて増すが「2)」との差異は不明)

があります。で、何が気になったかと言えば。
劇場版では、ラム弁天の牛丼屋のシーン。走り去るラムを見送った弁天がジャリテンをぶら下げてるトコで終わってます。
つまり、レンタルバスの予約だの、料金の支払いに関するやり取りはスクリーンに出なかったのです。

レンタル料金のくだりでは、ノーカット版に不整合が出ているようですが、逆に劇場公開版はカットされたゆえの不自然な部分が残ってもいます。

かなり対象が狭くなりそうな御題になってしまいますが、皆さんはオンリーユー、どちらのバージョンを決定稿とご覧になっておられますか。

私は感覚的に劇場公開版です。


Re: 91プラス?? deacon - 2002/09/22(Sun) 17:01 No.7  

<決定稿>
それはやはり劇場版でしょうね。
ノーカット版というのは、当時のLDやビデオを購入人への一種の「ご褒美」だったわけですから。
ただ難しいのは、先ごろ公開された「地獄の黙示録−完全版」のように、公開当時の作品が監督の本意であったかどうかということ。
「地獄の黙示録」の場合は、当時の劇場版がフランシス・F・コッポラ監督の本意ではなかった。だから20年以上の時を経て「完全版」がでたのでしょう。
ただ、OYに関していえば、カットされた部分がなくとも作品として十分完成していたのです。
ですから、「ノーカット版」が再発売されること自体が現場の人間にとっては不本意だったかもしれません(それによってストーリーに更に矛盾が生じるというのなら)。
だから、このOYに関していえば、やはり「劇場版」が決定稿なんでしょうね。
ただ。私はOYは「ノーカット版」しか持っていないのです!
劇場版をみたのは遥か昔。だから、正直劇場版とノーカット版の、詳細な差異部分がわからないですよね^^;
正直、カット部分は冒頭の面堂邸の場面だけと思ってましたから。
つまりわたしの勉強不足によって、哀れにも「弁天=守銭奴」になったわけです。もーしわけない!
追記:ただ、一つの突っ込み所ではあるし、あとで取り繕いたくもないので、あの草稿はそのままにしておきます^^


ようこそ! 投稿者:deacon 投稿日:2002/09/21(Sat) 19:07 No.1  
みなさまようこそ映画論掲示板へ!管理人のdeaconです。
構想から約半年間、漸く、始動することができました。
これも皆様のお陰です。
というわけで、まず第一の発題!

オンリー・ユーは、果たして第一作としてふさわしかったのだろうか!

いきなりヘビーな話題になってしまいましたが、この後のビューティフル・ドリーマーや、押井監督の活躍をかんがみながら、皆さんで考えていきましょう。


Re: ようこそ! deacon - 2002/09/21(Sat) 19:11 No.3  

その他、自分で思いつかれた議題、どんどん提出してくださいね!!


第一、そして最後の映画オリジナルとしてのオンリー... NbU - 2002/09/22(Sun) 15:23 No.5  

こんにちは、おもにこちらの常設掲示板にお邪魔しているNbUと申します。皆さんよろしくお願いします。

 注:電波と妄想が山盛りです。

 まず、最初に私の結論を言ってしまえばオンリーユー(以降OY)はこれ以降の映画作品の存在を許さしめた重要な作品であり、「うる星やつら」であることと、オリジナルストーリーの映画である事を両立させようとした最初で最後の作品であり、まさに一作目と呼ぶに相応しいものであったと思います。

 簡単にOYのあらすじと読み解きをここでの論点に絞って押さえながら進みます。(詳細なストーリーは管理人さん、deaconさんによる映画論ページをご参照下さい)

□冒頭影絵調による幼い二人の影踏み遊び。

 少女による「影ふみ」の意味の開陳と少年がソレを「素直に受け取る」情景が観客に示されます。

 *この辺りは事前の情報が流れすぎ、観客も冒頭のイメージシーンをあたるの過去と「知って」見てしまったためにせっかくの抽象化の意味が飛んで、そこでの出来事が強く現実視されてしまったのはちょっとした失敗であったと言えるでしょう。また影ふみの秘密がここで明かされる事も、わかり易さを優先したものか知りませんが、結果疑問です。


□場面変わって、いつものうる星やつら。

 配られる招待状、あたる自身にも身に覚えのない結婚の約束。
 そして現れる巨大なUFOと「エル」からの使者(「エル」って宇宙人だったんですね)。
 見も知らぬ「エル(この段階では年齢不詳)」との結婚を決意して、ラムに絶縁を言い渡すあたる。
 その時点で相手の心の内を斟酌することなく一方的な恋愛感情からあたるを拉致するラム。
 「エル」の手のものの協力で、そのラムの支配からの脱出を果たすあたる。

 *ここまでを第一部と見ます。
 本編導入での公開時面堂邸のシーンカットは惜しいところではありますが。全般的に早足でキャラクターをだし、段取りを進めていくのは演出のスピード感と言うよりはおざなりな印象。
 この辺りも監督をして映画になっていないと言わしめた一因かもしれません。
 ここまでで際立って繰り返されるのは、あたるとラム、二人がお互いに求めるものの違いです。
 ラムは「目に見える行為としての」愛情表現を、常にあたるに求めるのに対し、あたるはむしろ「行為は重要でなく、自由になった時に自然に働く心情」を重視しています。
 ラムの無尽蔵なあたるへの愛情表現も、あたるにとっては自分の心を束縛しようとする、ひいてはラムその人に対する気持ちさえ「ウソ」信じられないものにしてしまいかねない危険なものです。
 そこから逃げ出す事は、まさに自分の自由を取り戻す事、「バラ色の未来」へ向けての発進であったと言えるでしょう。
 ひとたび距離をおいて、爆散するラムの乗機を目にして驚愕する自分、そしてラムの無事を知って安堵する自分に気づき戸惑うあたる(いいシーンですね)。
 あたるは、ラムへの幾分かの想いを残して、ひとまず永久の別れの途につきます。


□エルとあたるの出合い(実は再会)

 初めて姿を現したエル。まさに絶世の美女。
 あたるへの熱い想いを口にしながら、駆け込んだのは面堂終太郎の胸であった。
 と、最初の躓きは置いといて、じゃれ戯れるエルとあたるの二人。
 しかし独裁女王エルの驚愕の趣味、冷凍美男のコレクションの存在という秘密が露になります。
 あたるはここでエルを拒絶!したものの…自分は囚われの身どうする事も出来ず、ラムを思い出してむせび泣くのでありました。

 *ここまで第二部、前段の『あたる/ラム』に対する『あたる/エル』パートです。
 エルが、何故自分に惚れとるのかも判らぬものの適当にごまかしながらはしゃぐあたるですが。
 何の肩書きも知らず「自分の意志」で私を選んでくれたと、趣味的外見(=面堂)にも合致しない自分に好意を寄せるエルに自分と繋がる価値観を見出した気になって(ポッ、と頬を染めるあたる。初々しいですね)、彼女の心情を確信します。(面堂に対し、「無駄な事は止めとけ、恥をかくだけだぞ」の自信満々)
 し、か、し、エルのもう一つ、美形と言う外見を愛し、相手を冷凍する事で移ろう心を排してコレクションするという、相手の心を信じることの出来ない側面を見つけてしまうあたる。
 かつての出会いに、十一年の時を経てその続き、じゃれあいの追いかけっこをねだったエル。
 エルの心は十一年前のアノ公園から離れていないのかも知れません。十一年間変わらぬしのぶ恋に比べれば、周囲の人の心が移ろい信じられないものに映っても仕方ありません。男達の凍った心はエルの停止した時間の現われでもあるのでしょう。
 この段階でのあたるはソレの原因が自分にある事を知らず、エルを罵倒し拒絶します。
 でも、それは(程度の差こそアレ)行為を軽視して、内の心情だけが全てであると言う自分に対する罵倒でもあるのです。
 自分の考えの絶対性に打撃を受けたあたるは、自分の過去、ラムを思い返します。
 その最中には「自分を制約しようとするだけの存在」だったラムの焼き餅やら電撃が、ラムの立場で見れば自分に対する常に変わらぬ愛情の現われであった事に今更のように気づくのでした。


□やはりあたるを忘れられないと、思い立つラム(アリア)

 星のスクリーンにあたるの顔を思い描いて、自分の心に問い掛けるラム。
 逃げ回ってばかり、自分の願いに応じてくれないあたる。
 でも…やっぱり好きだっちゃ。

 *ここはこれだけで第三部と見ます
 ラムのあたるへの想い、それは時として我がままにも映ります。
 周囲にはその理由(何故あたる?)も理解されないことがままあり。
 普段活動的なラムが動きをとめ、ただ内面であたるを愛し、想う心を歌います。


□結婚式襲撃

 あたるとの結婚式を強引に進めるエル。
 逆らう事も出来ないあたる。
 危険を冒してあたるを奪還しようとするラム。

 *三人初顔合わせ
 ここまで出番も活躍も少なかったサブキャラに活躍の場を与え(ランちゃ〜ん、どこ行った〜?)る活劇シーンとアニメーションとしてのアクションの見せ場ですね。


□タイムスリップ?

 ワープの事故でエルとあたるの幼い日の出会いの場に送られてしまう一同。
 そこでは無邪気に遊ぶ二人の姿が。
 そして、あたるはエルの影を踏んでいないことを思い出す。

 *記憶
 ここは素直にタイムスリップと取るべきか微妙なところ。
 異空間を進む一同、それがエルのアップに集約されていき…
 現れるのは夕焼けの公園。
 奇妙に出現する公園の遊具の数々。そしてそこにいるのは幼い二人きり、他には何の影すらもなく。
 ここは冒頭の影絵と同様、イメージ。誰かの心の中の世界と見ることは出来ないでしょうか。

 エルの、心。

 美しい景色の中で、乱入者にも気を止めずただ二人楽しげに駆け回る二人。
 居合わせる青年達は奇妙に動きを止めてただそれを見ています。
 無邪気に何のしがらみもなく、ただ互い追って追われて、そして少年が少女の影を踏んで約束が交わされる。
 繰り返し、繰り返し。そう、十一年間。

 そしてまさに十一年間、四千回余りに及ぶの繰り返しが完成する、約束と言う契約の更新が行われようとした寸前。

 あたるが叫びます。

 影は踏まれていなかった。

 あたるに小突かれ、泣き出す小あたるをあやすラムを見せられ、かつての自分、あたるの叫びの刹那までは同一体であった小エルは、自分を「おねいちゃん」と呼び。そして幻のように消えてゆきます。
 そしてエルは、十一年間の想いが幻であった事を知ります。

 あたるにとって「長いなあ」で現された未来の一点の約束もエルにとっては、常に思い起こされその日に向かい進んでいく持続した現在でした。



 ここ以降本文中での形式を放棄します(勝手ですね)。

 一同と別れ、星に帰りついて、エレベーターに消えるエルの頬に光る涙。
 前半、同じようにエレベーターへ消えたエルの頑なな表情を思えば、この一日がエルの中でどれだけの変化をもたらしたものか。
 
 十一年間、変わらぬ事であたるへの想いを持ち続けたエル。
 十一年間、日々を暮らし、その中で出会い、あたるとの関係を築いたラム。
 それは女王として許されざる行為、自分には許されなかった時間です。
 それはただひとつ、自分に許したわがまま。約束と言うしきたりによって齎された自由への憧れの喪失でもあったのでしょう。
 エルはこの日から、きっと、公人として、女王として生きるはずです。
 十一年前の「思い出」を胸に。

 一つだけ、救いは、彼女の心の中で再び時間が動き出したであろう事。
 いつか、新しい出会いが、彼女に幸せの時が訪れますように。

 (しかし、この映画でのあたるって酷いやっちゃ)

 エルと分かれた一同は、今度はあたるとラムの結婚式場へ…。
 これも一つの大円団。

 ここまでで、いい加減長いのですが、最初の結論に戻ってまとめると。

 この映画は、全てに渡って「うる星やつら」の構造そのものです。
 ラムはあたるにちょっかいを出し、嫉妬して焼き餅を焼き、あたるはその束縛から逃れようと必死。
 ラムはあたるに形を求めますが、あたるは強制された形や言葉を疑って、ただ自分の心が自然に伝わる事、相手にそれを受け取る事を望みます。
 どたばたとすれ違いを繰り返し、二人の間を裂こうかというトラブルを経て少しずつ二人の間を確かめ合ってゆく。

 また、エルの存在も初期うる星の基本パターンの一つを踏襲しています。
 日本人であるあたるには、影踏みは遊びのひとつで、特別な意味を持ちませんが、エルの星の人にとっては特別なもの。
 同じ一つの行為が二人の間で異なる意味を持つ事から来るトラブルを、ここではスケール大きくエルも女版諸星あたるじみた強烈さをもって登場します。

 オンリーユーは、「うる星やつら」の一つのエピソードではなく、この一作で「うる星やつら」全体を現そうとした作品です。
 最初ラムを頑なに拒むあたるから始まり、最後の結婚式からの逃亡。
 原作がその後何年も掛かって掘り下げ、描き出していった作品世界のダイジェストでもあります。

 繰り返しになりますが
 ビューティフルドリーマー以降が、「うる星やつら」作品世界を借りただけの監督自身から出るストーリー・1エピソードであり、それ一作では「うる星やつら」足りえていないのに対し、オンリーユーはどこまでも「うる星やつら」であってうる星の作品世界の中で一つ特別な物語を語ろうとしているのです。

 まさに初めて「うる星映画」に挑むのに相応しい気概も含めて最初の作品に相応しく。また、それ単体で「うる星映画」足りえてる唯一のオリジナル映画(完結編を除く意味)であると言えるでしょう。


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